徒然法律ブログ

時の問題や出来事を法律的視点で綴る弁護士ブログ

ケヤキの季節

2010年5月26日 | 斉藤睦男

 青葉通りのケヤキの新緑が日に日に濃くなる季節になりました。ケヤキが一番美しい季節です。ところが、地下鉄と東西線建設のため、藤崎デパート付近と西公園に近づくあたりでケヤキ並木が途切れボカッと空が見えたりしています。
 ケヤキが一部伐採・移植されることについては、反対する市民運動がありました。地下鉄のルートの変更や掘削方法の変更を行うことによりケヤキを伐採する必要はなくなるのではないかと指摘し、仙台弁護士会も同じ問題提起を総会決議で行いました。その法的な根拠となったのは景観権です。
 景観権という言葉は、国立マンション事件の裁判例などのなかで使われだしたもので(判決書では「景観利益」という言葉が使われている)、環境権という人権に帰属する「新しい人権」の1つです。環境権は憲法上の基本的人権として既に定着していますが、実は憲法に明文で規定されていません。なぜ環境権ということが言われだしたのかというと、それは公害関係立法が目白押しに成立した1970年ころに、良好な自然的環境があってこそ人間の健康で文化的な生活が維持され、初めて人間の幸福追求が可能となる、という認識が生まれたからです。
 環境に対立する価値としてしばしば登場するのが開発です。この環境と開発の関係は少しずつ変化してきています。

 1970年以前は、環境と開発の「調和」ということが言われていました。両者は対等な価値だったのです。しかし、「宇宙船地球号」(フラー)という考え方が登場し、1972年には「成長の限界」(ローマ・クラブ)が言われ、アメリカ(スリーマイル島)と旧ソ連(チェルノブイリ)での2つの巨大原発事故を経て、1992年のリオ地球サミットでは「持続可能な発展」ということが言われるようになりました。つまり、自然環境を守ることは、人類が生き延びるために不可欠な条件であり、人間の経済活動や社会活動の前提に置かれなければならず、自然保護は、経済活動や社会活動にとって内在的制約を課すものであると次第に認識されるようになり、自然環境の価値の優先性が承認されるようになりました。
 このことには思想史的な転換があります。近代科学は、デカルトの人間の精神と物質を明確に区分する二元論の考え方を背景に飛躍的に発展を遂げました。たとえば、医学は、人間の体を部品(パーツ)の組織的な集合物と見ることで、一部のパーツに不具合があればパーツを交換すればよい、というところから臓器移植が発想されました。自然環境も人間による征服と加工の対象であり、科学技術をともなった経済活動により切り刻み人間の生活に役に立つように作り変えるものと見られてきたのです。
 しかし、自然は有限です(宇宙船地球号の考え方)。清浄な食・緑・水が無くなってしまえば(CO2問題を例にとるまでもなく)人間の生活そのものが立ち行かなくなります。このとき、人間存在も自然の一部であり、自然の循環と生命(種)の多様性が維持される中ではじめて生存できるものであり(共生思想)、人間の体は単なるパーツの集合体ではなく精神作用とともにあり自己治癒力を持つ有機的な生き物である、という考え方が誕生したのです。「持続可能な発展」は「持続可能な生存」に転換したと言えます。
 共生思想を理論的につきつめていくと、青葉通りのケヤキの樹も、ヒトと同じく共生的価値を持つ存在であるから、原告;青葉通りの「ケヤキ花子」が、被告;仙台市に対し、伐採差止めの仮処分や訴訟ができるのではないか、となります(むろん、できませんが)。

 話を元に戻します。ケヤキ並木が途切れている今の景観をどう思われますか。これは人それぞれだとは思いますが、私には、デカルト以来の二元論(自然は人間が支配し切り刻む対象であり、人間とその生産力がすべての中心にある)が今でも根強く生きていて、ポッカリ明いた空間は、人間のおごりを象徴しているように思えてならないのですが…