徒然法律ブログ

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「運が悪かった」と「泣き寝入りをしない」の境目

2012年3月7日 | 斉藤睦男

 考えごとをしながら舗道を歩いていたら、敷石の縁が浮いていた箇所があって、それに気づかずに躓いて転んでしまい、足をくじいてしまいました。その舗道は市が設置し管理している舗道でした。
 これはありそうな話ですが架空の設例です。昔なら、運が悪かった、ということで、わが身の不運を嘆き痛い足をさすって終わりだったと思います。でも、足が骨折していました。今なら、自分が怪我をしたのは市の舗道の管理に手落ちがあったからで、市に責任がある、そうだ、市に対して治療費などの損害賠償をしよう、と思う人がいるかも知れません。
 A「運が悪かった」とB「人のせいだ(損害賠償をしよう)」との境目はどこにあるのでしょうか。
 この境目は、時代や社会とともに変化してきています。おそらく、Bの側が広がってきているのではないでしょうか。
 たとえば江戸時代、町民が道を歩いていて武士にぶつかり武士の脇差をしたたかはじいてしまったとき、問答無用で切り捨てられたかもしれないし、町民(の遺族)はそれでも「しかたない」と思ったかもしれません。しかし、「人権」「平等」という観念が明治以降わが国にも導入され、それは「しかたない」ことではなく「理不尽なこと」に変わりました。 もっと近い時代では、公害問題があります。たとえば、ある地区で工場の煤煙でぜん息になった人が急に増えたときに、しかたないと泣き寝入りをせずに立ち上がった人たちがいました。「運が悪かった」で我慢していたら、いまのような「環境の時代」は来なかったかも知れません。理不尽なことには泣き寝入りをせずにそれをただしていくことで住みやすい社会が実現してきたのはまちがいないと思います。

そういえば、アメリカでの話ですが、ある女性が自分が肥満になった原因を考えてみたら、M店のハンバーガーが大好きでハンバーガーばかり食べていたことに思い当たり、自分を太らせて困らせたのはハンバーガーのせいだ、というわけで、M店に対し損害賠償を請求する訴訟を起こしたことがあります。ここまでくると「?」ですね。自己責任ということがごく自然に受けいれられている欧米社会でこのような訴訟が起きたのは不思議な感じがします。
 けれども、やはり「境目」がどこかはむつかしい問題です。たとえば、つい最近起きたニュージーランドの地震で建物が崩壊して語学留学生が下敷きになり多くの人が亡くなったりまだ行方不明のままになっています。これなども、「運が悪かった」のか「人のせい((損害賠償ができる)」なのか、むつかしい問題です。
 日本にもこういう例があります。宮城球場の3塁側内野スタンドで楽天戦のプロ野球を観戦していたら、飛んできたファールボールが観客に当たり観客が大怪我をした事故です。足元にあったビールのコップを取り上げて顔を上げたちょうどそのとき、飛んできたライナー性のファールボールがその人の眼を直撃したのです。その人は、ファールボールを防ぐネットなどの設備の安全性に問題があるとして、球場管理者の楽天球団と球場所有者の宮城県の管理責任を追及して損害賠償の訴訟を提起しました。治療費は支払われていましたので、怪我による休業損害や慰謝料の請求です。宮城球場はもともと「教育施設」だったという沿革上宮城県教育庁の所轄であり、筆者は宮城県の訴訟代理人として訴訟に関与しました。そして、第一審判決がつい先頃言渡されました(平成23年2月24日仙台地方裁判所第3民事部)。
 みなさんならどう判断するでしょうか。「運がわるかった」のか「人のせい((損害賠償ができる)」なのか。 判決は、観客の危険回避のために安全設備を設けることは当然に必要なことだが、他方で、臨場感はプロ野球の観戦にとって本質的な要素なのであるから、臨場感の反面として観戦に内在する危険は観客も共有するものであり、物理的なネットのみならずソフト面での諸注意(アナウンスや危険を知らせる笛)などによる安全配慮がなされている限り、ファールボールによる怪我は不可抗力ないしそれに準ずるもので、楽天球団と宮城県には責任はない、と判断しました。この訴訟は、控訴審に移行する可能性もあり、最終的な司法判断は将来高裁・最高裁の判決が出でみないとまだ分かりませんが、第一審判決は「境目」の問題を考えるうえで重要な示唆を与えてくれます。 考えてみれば、弁護士の仕事というのは、多かれ少なかれこの「境目」問題にいつも接する仕事だといえます。